独り言的なもの

ずいぶんぼんやりとして   ふと思いました。
どんなに環境が変わろうとも、自分というものは変わらないのですよね。
むしろ、どんな時にも変わらずにあるものが 本来の自分というものなのです。

すっかりやられちゃいそうでした。

気付いたところで何が変わる(?)という疑問も心の隅の方にまだ居座っているのだけれど、
実はそういう事をとうして自分という存在が分かるのかもね。

社交辞令的なものばかりが行き交う控え室。
めんどくさい事を、当回しに押し付けてくるやから。
妙に寂しがりな人間。
人との交流のできない生徒。
汚い人間に話をするか、返ってこない天使たちに独り言をゆうか。
気がめいる。
普通の人間と話をしたい。

最近妙に夏休みを思い出す。
もう何月かしたら、懐かしい人たちに会えたらいいのに。

とどまりすぎて、わたしは厳しさを忘れてしまっていた。
どうせなら、思い出すことの無い場所にずっといたかった。

でも最近、遠方に住む家族とは割と頻繁に連絡を取り合っている。
昔からそうだったな、ストレスを外で多く感じているときはその分、家族が自分に優しくしてくれた。
なんとなくの自然な流れなのか。
偉大なる母はすべてお見通しなのか。
どちらにしても、ありがとうだな。

最近はわたしのアンテナが早くも錆び始め、2番目くらいの○にはいる身時かな展覧会を見そびれる。
思ったときに即行動ができなくなってきてるのか?
だとしたら、きっとこの不安感もそれが原因なんじゃないだろうか。

身時かな楽は、意思弱のわたしをすぐに誘惑してしまう。
最近じゃあ、随分家が快適になってきてしまった。
世の中の姉さんたちが無駄に半身浴などで1・2時間時間をつぶそうというのも、最近の脱力感に満ち満ちた生活を思うとなんだか理解できてしまいそうな気がするわけで。



と。


ぼやいていたら、少しばかりのやる気なら出て来たような気がします。
さすが、ハテナダイヤリー。もう少しばかり私に依存させておくんなまし。

いいんです。
例えこの日記が誤字脱字だらけでも。
そういうテンションの日記なんで。

最近の私、最小限しか動きませんから。
ケアとかなんもしませんから。
あーはー。